昔の自分を振り返ってみる
サイトをリニューアルしたので、久しぶりに記事を追加していきます。
自作のブログツールからwordpressへと移行したので、だいぶ見やすくなったかな?
中々サイト更新に関して手が回りませんが、少しずつ更新していきます。
このサイトを作ったきっかけ
このサイトは初心者が「電気主任技術者の試験に合格する」という事を目標にかかげています。
そんな自分が高難易度の資格である電験三種へと挑むきっかけになったのは以下に述べていきます。このサイトは頭が悪く勉強に集中できない私が、なんとか勉強に集中できないかといろいろと考えながら、「生活を電験一色に染めてやろう」という意思のもとで作り始めたサイトです。
私は第二種電気主任技術者の資格を試験合格しましたが、電験の問題を人に教えられるほど理解していません。なのでこのサイトでは「過去問の解説」といった項目を作る気はありません。私は問題の解答へ最短で至る術は知っていますが、その問題がどういう理屈でその答えが導き出せるか、といったことを人に教えられるほど深く理解していないのです。
電験の問題解説については、他のサイトで詳しく解説されているサイトがありますし、問題集をよく読めば理解できると思うので、そちらを参考にされてください。
逆に言えば、私ほど電験のことをそれほど理解できていない人間でも、受かる可能性があるという訳です。
私はとても頭の悪い学生だった
私が第三種電気主任技術者の試験勉強を始めた当時にこのサイトを作り始めましたが、当時の私は電験の知識どころか、四則演算も怪しいレベルでした。
私は学生時代から非常に頭が悪く、偏差値40程の地元の工業高校に入るのもやっとという程の学力でした。工業高校では機械・電気・土木の科があり、私は機械科出身でしたので、電気のことはあまりわかりませんでした。小学生時代の成績表は5段階評価でほとんど1か2しかない程、勉学と運動に支障を来していた劣等生でした。
高校にも関わらず微積分の授業はなく、ただ授業を聞いてテストに出る範囲だけ覚えるといった勉強法で、なんとか乗り切った覚えがあります。
確か高校1年の後半、数学の先生が急病で亡くなってしまい、その後をカバーする方が誰もこられなかったので、自習となっていたんですね。当時自習は好きなことがやれるので、私はポケットコンピューターでひたすらBasicのプログラムを打っていた覚えがあります。
一言に”工業高校”といっても千差万別あるのだと知ったのは、社会に出てからでした。
私が大企業の下請け企業に雇われたとき、新卒で入ってくる工業高校生のレベルの高さにびっくりしたものです。
聞けば偏差値60程の工業高校で、その中でも優秀な学生たちが入社してくるとか。
なるほど、自分が通っていた工業高校とはレベルが違うんだなぁ、通りで優秀だなと感心したものです。
英語も全くできなかった私ですが、社会に出てから勉強をはじめました。新卒で入ってくる工業高校の生徒が英検2級を持っていると聞いて、あぁ、俺とはレベルが違う工業高校もあるんだなぁとその時も思いました。
頭が悪くても頭が低ければなんとかなる
けれども、私のような頭の悪い人間でも、毎日少しずつ勉強していけば、電験三種の合格にはたどりきます。
実際、私は第三種電気主任技術者の試験合格をし、その後、エネルギー管理士(電気)合格、技術士一次試験(電気)合格、そして第二種電気主任技術者 試験合格までたどり着いています。
私は頭の出来が悪いことは当然わかっていたので、わからないことを周りの人にききまくりました。その時は「お前、こんなこともわからないのか!」とびっくりされたこともあります。
それでも私は先輩や、入社したての若手連中に頭を下げて、微分積分の仕方などを聞きました。そして夜勤や宿直中など、基本的に待機していればいいときに私は必死に勉強をしたものです。
「継続は力なり」とは言いますが、私は5000時間勉強という途方も無い勉強時間を積み重ねて、最終的に電験二種に挑み合格しています。
が、おそらくは私より基礎学力のある皆さんならば、これほどの勉強時間をかけなくても合格に至るとは思います。
現在の私は悠々自適、しかしそこに至るまでは
現在の私は電気主任技術者として仕事をしていますが、過去の従業員20人程の小さな町工場で保全員をしていた頃からは考えられないほど恵まれた環境で仕事をしています。
私は元々、地元の工業高校を卒業後に入社したプラント工場で3交代勤務をしていましたが、まさに3kと呼ぶにふさわしい作業環境でした。
1500度の高温の炉の前で深夜、5mほどのパイプを炉の中につっこみかき回すという仕事です。想像できますか?高温の炉の前で、重油が吹き出すパイプを炉から引き抜き、革手袋をはめて熱いチップをパイプから外して新品に付け替え・・・周囲は腐った重油でベトベト。カーボンが風で舞い作業服も真っ黒です。重油のたまった床に膝をつけば、膝の毛穴に重油が入り込み、数週間たっても黒ずみが消えませんでした。
私は生まれつき体が弱く運動は全くできなかったため、3交代勤務と深夜の重労働作業で、またたく間に衰弱し、その仕事は2年ほどしか続きませんでした。
その後入社した会社の鍛造工場でも、1500度もの炉の前で弱い体にむち打ちながら必死に仕事をしていたんですね。
真夏は40度を超える空調のきいていない工場の中で、目の前には1300度に加熱された鉄が灼熱を放って私の体を焼くんです。防護面をしていてもその熱気が皮膚を焼きました。余りの辛さに頻繁に吐いていました。体が弱いのに、氷河期直撃世代だったことと頭が悪く学歴も資格もなかったため、仕事を選ぶことができなかったんですね。
体と心を壊しながら、「自分にできる仕事はなんだろう」と真剣に考え、色々な経験やかつての電気主任との出会いなどを通して、電気主任の仕事を目指すことになったんです。
体が弱い私は、頭も弱かったですのですが、頭を使うしか生き残る道はなかったんです。
電気主任技術者の仕事は需要がある
世間は再生可能エネルギー発電の需要や、団塊世代の大量退職での需要で、第二種電気主任技術者の免状保有者が、慢性的に不足している状態となっています。
故に、「経験がなくても免状保有者ならば誰でもいいので入社してくれ」という状態になっています。
特に需要が高いのが、実を言うと氷河期世代です。
私は氷河期世代の中でも最も厳しかった時代の人間ですが、この時代というのは企業が社員の応募を極限まで絞った時期であり、ちょうどこの年代が今管理職の年齢にさしかかっていますが、企業内での氷河期世代管理職ポストが空いているのです。
私は運がよいこと?に氷河期世代でしたし、第二種電気主任技術者免状保有者としては割と若い年齢もあり、引く手あまたでした。
おそらくは、相当運が良かったのでしょうが、それでも5000時間にも渡る勉強を続けていなければ、運があったとしても、合格にはたどり着けなかったでしょう。
勉強は辛かった。でも仕事はもっと辛かった
正直言いますと、電験の勉強は、辛かったです。私ははじめ分数の割り算がわからなくなっており、小学生の算数からやり直しています。電験の勉強に挑む前に解決しなければならない問題が山積していたんですね。
仕方ないので私は毎日2時に起きて朝7時まで勉強し、仕事をし、その後深夜まで勉強をするといった期間を長期間続けました。当然、体調を崩したこともあります。
その前には2級ボイラー・1級ボイラー・乙四危険物・甲種危険物・消防設備士といった電験と比べると比較的簡単な資格も何度も落ちています。どうしようもできないほど、頭が悪かったんですね。
エネルギー管理士の試験は3回滑り、リセットも経験しました。 いわゆるスパイラルという奴ですね。
正直、心が折れて「もう三種はあるからいいか」と諦めそうにもなりました。
けれども、私は頭が悪いせいか、諦めが悪く、次こそは、次こそはと試験を受け続けました。かつて簡単な資格で何度も何度も滑っているので「こんな程度の失敗で諦められるか」ともう滑るのに慣れっこになっていたんです。
世間で言ういわゆる発達障害というヤツなんでしょう、一つのことに執着したらそのことしかできなくなるという特性が、電験で生かされた形です。
その結果、私は粘り強い勉強の末にエネルギー管理士の試験にも合格し、最終的には第二種電気主任技術者の試験にも合格しています。第二種電気主任技術者は3年目の試験で合格しました。
(余談ですが電験一種の電力・機械も科目合格しています。さすがに一種はコスパが悪そうなのでここで諦めました^^;)
これだけの辛く苦しい勉強を続けられたのは、私が以前していた仕事があまりにも辛いものだったからですね。
仕事が苦しかっただけはありません。こういった最底辺の仕事に集まる人間というのは、性格が荒くとても褒められた人たちばかりではなかった。勤務中に酒を飲んだり、酒の買い出しに行かされたり、馬券のお金の運び屋をやらされた事もありました。地元ヤクザの対応をさせられたこともあります。
ゴミステーションの清掃担当だったので荒くれ者が適当に放り込んだ弁当のゴミや煙草の吸殻を拾うなど、惨めな仕事も随分してきました。
ショットブラストという鉄粉を猛烈な勢いで吹き付ける工場では先が見えないほどの鉄粉が舞い、私は顔が真っ黒になるほど鉄粉で汚れ、目の中には鉄粉が入り込んで痛くなりました。
上で述べたような労働環境に加え、私のように頭も弱く体も弱い人間は、どこにいっても虐められるのです。同期から頻繁に殴られ、無視され・・・といったことが日常茶飯事的にありました。パシリにさせられるのはまだ構ってもらえているのでマシだ、と考えていた程です。
二種取得後の転職は容易だった
たいして学歴のない私でしたが、第二種電気主任技術者の資格を取得した後は簡単に転職できました。転職エージェントに登録後はエージェントから毎週のように「この会社にオファーしてみては」といった案内が来ていました。
この記事を書いている2021年時点では、外資系で働いています。給料は手取り12万・・・といっていた頃から比べると数倍になりました。外資系なのでいつ首を切られるか・・・という不安はあるものの、相場からかなり離れたお給料をもらっているので、貯金できる金額が半端じゃないです。
あと5年も働ければリタイヤです。50前にリタイヤして世界旅行にいくのもいいかなと思っています。現在の労働環境が良すぎるので続けられるうちは続けます、が。
そもそも外資系では労働の範囲が明確に定まっており、電気主任としての仕事がフルでできます。工場などのように電気以外にガス・水・下水道といった仕事を担当することもほとんどないので、とても気楽に過ごせています。副所長になり市議会議員との繋がりもできましたし、マスコミとの人脈もできてきました。
現在は仕事内容もテレワーク主体でほぼ「いるだけ」という環境。本当に恵まれた人生になったと思っています。
元々頭が弱かった自分は、若い頃はとにかく不幸なことばかりでしたが、二種を取得してからは本当に安定したというか、平和で平穏な生活を送れています。もしも電験二種の資格に合格していなかったら、今頃工場であくせく汗を流しながら、上司にどやされてストレスをためて仕事をしていたのだと思うと、「あのとき努力していてよかったなあ」と本当に思います。
結論:辛さをバネにして勉強を続けよう
本当に嫌で嫌で仕方ない、でも私は技術もないし資格もない・・・そんな状態で人生を追い詰められていった経験があったからこそ、5000時間もの勉強時間を数年間も続けることができた。
皆さんも仕事でどうしても許せない、我慢できないことって無いですか?このまま今の仕事を続けたら、いつかはつぶされてしまう。
会社は残酷なものです。弱った人間は最後はあっさり捨てられてしまうものです。私はこういった経験を何度もしています。捨てられる側の人間というのは、惨めなものですよ。そういう事態になる前に、自分なりに考えて今から行動されたほうが良いと思います。
特に昨今のコロナウイルス蔓延により世界的な不況に陥っている中で、飲食業界や既存の製造業・私がかつて働いていた航空業界等は大打撃を受けることは間違いないでしょう。そういう意味でも自分を守るためにも資格を取得すべきなのではと思います。
みなさんも、最後まであきらめず頑張ってください。
陰ながら応援しています。
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